死後 61 年目の命日、嘉永6年2月 14 日、海蔵寺山上の中天に神光があらわれ、安藤の霊験であるとされ各地から参詣者が来るようになった。明治6年安藤邸跡に継明神社(現安藤神社,北宇和郡吉田町)が建立され、現在に至っている。. 昭和 13 年2月 11 日死去、 73 遊女宇和島.
イネの晩年 明治17年(年)、銅座町55番地で産婆として再出発するため、長崎県令に長崎区長を通して産婆御免許鑑札願いを出して開業した。62歳の時、娘たか一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。明治36年(年)、食中毒のため東京市麻布区板倉町77歳の生涯を閉じた。墓は長崎市晧台寺の楠本家の墓地にあり、母たきと恩師二宮敬作と一緒に眠っている。. 楠本イネゆかりの地を歩く シーボルト通り~桜馬場から新大工町~ 1 シーボルト宅跡. 寛永7年()、泰室禅師により岩原郷(現在の立山町)に創建された。 その後寛永17年()、長崎代官末次平蔵茂貞(2代)の尽力により幕府の命によって慶長19年()破却されたトードス・オス・サントス教会跡地(現在地)に移転する。寺院内にこの教会の面影を残すものとしては、寺の門前にある大クスと、墓地に通じる裏門の横にある「キリシタン井戸」と呼ばれる古井戸、そしてその脇に置かれた加工された大理石の一枚石だけだという。 また、14代住職・鉄翁禅師は南画家としても知られ、木下逸雲、三浦悟門らとともに長崎三画家の一人と言われる。.
キリシタン全盛の頃の慶長12年()、唐津出身(佐賀)の威福院高順が長崎を訪れ、数々の妨害に直面しながらも新高麗町のヤブの中に小さな祠を建て、天満宮をまつっていたが、元和8年()長崎奉行・長谷川権六郎が神社の由来を聞き、桜馬場郷の現在地に敷地を寄進し、社殿の造営を助成。 その後、明治元年、神仏混淆(しんぶつこんこう)禁止令により従来の威福寺から天満神社と改称、明治7年()村社となった。菅原道真公が祭神。 江戸時代、オランダ人や唐人たちが将軍に会うため長崎を発って江戸に上る時にはここで勢揃いして見送り人と別れの盃を汲み交わし、旅の安全を祈る祈祷寺としても親しまれていたという。神社建立以来約年の歴史が刻まれている。. 長崎商工会議所 〒 長崎市桜町 長崎商工会館2F TEL. 明治6年~昭和 19 年( ~ )歴史学者。. 明治6年7月 19 日、宇和郡白浦(現宇和島市吉田町)の森家に生まれる。後に、山本家の養子になる。広島の修道学校(現修道高等学校)に学び、国学を三上一彦に師事する。国学院(現国学院大学)を卒業後、明治 29 年から神宮司庁に勤め、『古事記類苑』の編纂に従事する。大正6年、東京帝国大学史料編纂官になり、同 10 年、国学院大学教授を兼任する。大正 12 年、『日本神道史の研究』で文学博士となる。.
遊女宇和島 (やんべ せいべえ). 生年不詳~元和6年(~ )宇和島初代藩主秀宗の時の家老。和霊神社祭神。. 秀宗の宇和島入部に際し、政宗により家老に抜擢された。入部の費用、大坂城修築の工事費の捻出に苦心し、その返済のための緊縮政策が桜田玄藩等対立者の反感を買った。秀宗の不満も加って、上意討と称する一団によって元和6年 6 月 29 日暗殺された。死後、対立者側に変死が相つぎ、清兵衛の崇りと言われた。初め児玉明神として祀られたが、承応2年桧皮森に移されて山頼和霊神となった。.
三好 竹陰 (みよし ちくいん). 文化 12 年~明治 22 年 ~ ) 医師。宇和島の藩医であり能書家でもあった。名は周伯、順庵と称したが、のち順風と改めた。. 幼少のときから書が巧みで、南昌老公(伊達村寿)が彼を召して揮毫せしめ、激賞したという。医師としてより書家として有名になり、竹陰の使い古した大小の筆を埋めて筆塚をつくることが、左氏珠山ら雅人によって計画され、土居通夫らによって宇和津彦神社の境内に建てられた。明治 22 年 12 月 24 日死去、 74 歳。. 三好 応山 (みよし おうざん). 寛政4年~嘉永2年( ~ ) 絵師. 浦和 盛三郎 (うらわ せいさぶろう). 遊女宇和島 14 遊女宇和島 25 年( ~ ) 金輪網の発明者で、明治時代における本県まき網漁業発展の基礎をつくった人。.
天保 遊女宇和島 年 11 月3日、宇和島藩内海浦(現南宇和郡愛南町)網代に生まれる。浦和家は高知県幡多郡平田村(現宿毛市平田町)より出たもので、代々神官であった。祖先和田又四郎が諸国を遊歴し、内海の魚神山に来て農業を営んだ。その子儀左衛門(盛三郎の祖父)が家業を継いで、文化5年2月、由良山というところで浦を開拓しようと同志 20 名を募って、翌年山林を焼き払い開墾に取り組んだ。だが,その年に儀左衛門は死亡した。孤子となった萬蔵の生活は父からの遺産をすべて消費し、困窮を極めた。海草を採り、釣をするかたわら、人夫で賃金を得ての貧しいものであった。. 文政 4 年( )頃、やっとつくった農作物を猪や鹿に食害され、その対策に頭を悩ませていた。そんなある日、萬蔵が山に登って眼下の海をながめたところ岸近くを魚の大群が遊行するのを見て、今後の生活のよりどころを漁業と決心した。その後火災により財産を失くしたりして困難にも遭遇したが、弘化3年には網代長を拝命し、その翌年には功により苗字呼ぶことを許され,浦和盛次兵衛(のち平内と改める)と名乗った。.
浦和盛三郎は、父萬蔵,母シュンの末子として生まれた。長兄寿老左衛門に子がないため、明治3年、 28 歳で養子となって家督を相続した。盛三郎は荘重で、寡言静かに図り、決断力に優れ、威厳を備えていたという。当時の経営状況は、漁業は大敷網3帖(定置網の一種)と鰯網2帖(船びき網)を主体として、農業では小作料と自作収入によって生活を維持していた。広大な土地を所有していたが、その大部分を地元民に開放し、信頼と服従を得ることができた。これはやがて、漁業や漁獲物の加工従事者との雇用関係を緊密なものとさせる原動力となった。.
遊女宇和島 20 遊女宇和島 22 年8月 23 日付で県から操業の許可を得た。この漁法は金輪式と呼ばれるまき網漁法の一種で、明治 14 年に農商務省技師関沢明清が、米国から導入した米式巾着網の長所を取り入れて開発した。盛三郎は、これに独特の改良を加えて完成したもので、本県独自の技術開発によるものとして注目された。明治年代における巾着網の発達に、強烈な刺激を与えた意義は非常に大きい。.
また、明治 20 年に定められた漁場借区制に伴う、南宇和郡関係の第 23 漁区の取締りを務めたほか、明治 19 年4月1日には第 15 水産区組合の南宇和郡組合の頭取に選出され、大分県、高知県等、隣県との漁業調整に尽力した。明治 22 年には、綿漁網の開発や砲殺捕鯨法を考案した。. 漁業以外でも銀行の設立、運輸・水産物流通機構等の改善に努めたほか、村会、郡会、県議会の各議員としても活躍した。このように多岐にわたって活躍したが、明治 遊女宇和島 年 遊女宇和島 月6日、 48 歳で松山市の客舎で没した。明治 31 年9月網代では氏の功績に報いるため地元に頌徳碑を建立している。.
宇都宮 勇太郎 (うつのみや ゆうたろう). 明治 30 年~昭和 45 年( ~ ) 畜産・蚕糸功労者。. 明治 30 年 10 月 遊女宇和島 日東宇和郡野村町野村に生まれた。大正 10 年、野村町産業技手に就任。当時は雄牛肥育を重点畜産としていたが、大正 15 年に至り、郡畜産組合の総会において酪農導入のための調査研究をすることが決議された。その後、昭和8年野村町農会長となるも、 12 年以降は戦乱時代と化した。主殺偏重が続く中にも酪農への夢捨て切れず、昭和 18 年2回にわたる先進地の視察の結果、翌 19 年には有志適格者 78 名で構成する野村酪農実行組合(任意)を結成した。. 自らが組合長となり、野村種畜場とタイアップして乳牛の導入を推進した。昭和 19 年からは、農業会長あるいは町長ともなり、直接間接に酪農業の指導奨励に尽酔し、生産に併行して処理販売事業も進め、 20 年には明治乳業の生乳受入れ操業が開始せられるまでになった。次いで、昭和 遊女宇和島 年には、酪農模範村の指定となり、町専任畜産技師も設置された。 23 年、野村町酪農業協同組合の結成に当たっては顧問となり後進の指導に当たっていたが、 26 年7月野村町酪農業協同組合を発展的に解消し郡一円を区域とする東宇和郡酪農業協同組合の設立を見るに至った。推されて組合長となり、昭和 30 年から一期県議会議員を務めた。.
昭和 30 年 遊女宇和島 月、県畜産功労者として知事表彰を受け、また東宇和郡酪農振興対策協議会設立、酪農同志会の結成など数々の事績を残し、さらに酪農創業 10 周年記念事業として組合事務所を移転改築するなど、その功績は誠に偉大なものがあった。また、この外愛媛県酪農協会長、東宇和郡蚕糸農業協同組合長など、数多くの役職を歴任した。「ミルクとシルクの町 野村町」を築き上げた功労が評価され、昭和 36 年 11 月黄綬褒章を受章するなど、相次ぐ表彰に輝く生涯であった。昭和 45 年 10 月 24 日、 73 歳で他界した。. 村松 恒一郎 (むらまつ こういちろう). 元治元年~昭和 15 年( ~ ) 言論人、衆議院議員。. 元治元年4月 24 日、宇和島城下笹町で、士族村松喜久蔵の長男に生まれた。宇和島市長山村豊次郎は実弟である。末広鉄腸を頼って上京、国会新聞、次いで大阪の関西日報・東京朝日新聞の記者で生計を立てた。早くから国政への志を持っていたが、なかなか果たせず、明治 41 年5月の第 10 回衆議院議員選挙に、郷里愛媛県郡部選挙区で憲政本党から立候補して初当選した。この時、すでに 44 歳に達していた。明治 45 年5月の衆議院議員選挙では次点に甘んじ、大正4年3月の選挙でも落選した。その間、所属する国民党が分裂して同派代議士の多くは立憲同志会に走ったが、本県で唯一人国民党に留まり、孤高の政治家といわれた。.
大正6年4月の第 13 回衆議院議員選挙に、国民党公認で再度挑戦、最高点て当選して復活した。しかし、大正9年5月の選挙では、再び落選した。この前後に犬養毅・尾崎行雄らと普選運動に従事し、その最初の普選である昭和3年2月の、第 16 回衆議院議員選挙に当選して国会に返り咲き、次の5年2月の第 17 回選挙でも再選された。. 昭和7年2月の第 18 回衆議院議員選挙には、弟の山村豊次郎が政友派から推されて立ち、民政党に属する村松との兄弟対決かと騒がれたが、恒一郎は老齢を理由に立候補を辞退して弟に座を譲った。常に貧乏候補で選挙ごとに辛酸をなめたが、正直で物ごとにこだわらない壮士風の肌合いが多くの人々に愛され、個人的人気を支えた。.
昭和 15 年6月5日、 遊女宇和島 歳で没した。東洋大学の文学部長を務めた詩人の村松正俊は長男である。.
猪崎 保直 (いざき やすなお). 嘉永6年~明治 43 年( ~ ) かつお漁業に本県で初めて通い舟(運搬船)を採用したほか、石油発動機付漁船の利用を案出し、同漁船の機械化を進めた。かつお節製造発達への貢献者でもある。. 嘉永6年8月 18 日、宇和島藩外海浦(現南宇和郡愛南町福浦)で父與太郎、母リセの長男として生まれる。保直は当初船舶による運搬業とかつお一本釣漁業,、かつお節製造業のほか酒造業等多角的経営によって生計を立てていた。機を見るに敏で、先見の明があった保直は、事業に対する研究心がきわめて旺盛であった。. 明治 35 年、静岡県にただ一隻あった動力かつお漁船を見学し、これを機に当時御荘~宇和島間に貨客船として就航していた御荘丸を庸船し、沖之島沖漁場へかつお船を曳船した。このことは、本県におけるかつお漁業に一大革新をもたらせたもので、たちまち同地方の同業者へ大きい影響を及ぼした。それ以来、かつお漁船の動力化か急速に進み、明治 42 年5隻に、同 43 年 16 隻に、同 44 年に至って 21 隻にまで急増するに至った。.
保直は、かつお一本釣漁業をもとに南宇和郡漁業界の重鎮となり、屈指の資産家として名を成したが、自らは常々おごりを戒め勤倹を旨とした。反面、事あれば私財をなげうって難に処するといった具合で人望もあった。明治 43 年9月 遊女宇和島 日、長崎の客舎で没、 57 歳。. 山崎 惣六 (やまざき そうろく). 天保 14 年~明治 26 年( ~ ) 宇和島の志士・政治運動家・初代宇和島町長。.
天保 14 年 12 月 10 遊女宇和島 13 年国会開設請願運動の時期、宇和島に蟻力社を組織して愛国社の集会に加わるなど民権運動に従事した。明治 20 年の三大事件建白運動では、坂義三に勧誘されて宇和四郡の署名集めに奔走、警察の「政党員名簿」には、「温和ノ性ナレトモ,事二因り頗ル活発決シテ人二譲ラサルノ気性アリ」と記録され、宇和島を訪れる政治活動家は必ず山崎を頼ったといわれるほどの人望家であった。. 明治 23 遊女宇和島 26 年6月 28 日、 49 歳で没し宇和島西江寺に葬られた。. 明治 32 年~昭和 45 年( ~ ) 実業家。. 愛媛県北宇和郡三間村務田(現宇和島市三間町)で、明治 32 年7月2日に生まれる。大正3年、三間村高等小学校卒業。大正8年 ,21 歳の時郷里で松山市大野商店の除草機の販売をはじめ、大正 13 年、三間村で大野式除草機などの製造を開始、井関農具製作所と称した。これが、後の井関農機の母胎である。.
販路を九州の熊本に拡げたが、熊本の共進会で見た岩田式籾はぎ機に心を奪われ、それと高知の山本式自動選別機とを組合わせて、高性能の全自動籾すり機の完成に成功した。その製造のために、大正 15 年松山市新玉町(現湊町)に工場を移し、井関農具商会と改称した。. 昭和6年、株式会社に改組。販売提携のため大阪の資本と合併し東洋農機となったが、わずか1年で分離して、昭和 11 年に井関農機株式会社を設立して今日に至っている。昭和 20 年の空襲によって本社・工場は灰燼に帰したが、農地改革後の農業機械化ブームに乗って、またたく間に復興,耕耘機・コンバイン・トラクター・田植機を次々と開発して、井関農機をして我が国でもトップクラスの総合農機メーカーに育て上げた。. 昭和 35 年、井関農機は株式を上場し、愛媛を代表する全国的企業となった。彼は東南アジアや中国本土への農機具の輸出に早くから目をつけ、昭和 40 年、 67 歳で訪中農業機械工業代表団団長として中国本土を訪れている。また、愛媛工業クラブ会長、松山商工会議所会頭、松山経営者協会長、済美学園理事長などを歴任して地域の発展に尽くした。趣味は囲碁。日本棋院7段。日本棋院愛媛県支部長。小山久良棋士を師とも友ともし、愛媛県における囲碁の普及に大きく貢献した。理事長であった済美高校に囲碁部をつくり、婦人のための囲碁クラブ芝蘭会を誕生させたのも彼である。また、花を愛し、万翠荘での菊花展、バラ展を発会させた。愛媛県教育文化賞、愛媛新聞賞等を受賞。また、県内の農業発展のため井邦賞の基金を残した。昭和 45 年 10 月 11 日死没、 71 歳。.
八幡屋 春太郎 (やわたや はるたろう). 明治 24 遊女宇和島 41 年( ~ ) 大同海運専務、広海汽船社長。. 明治 24 年2月 17 日北宇和郡宇和島町向新町(現宇和島市)に生まれる。宇和島中学(現宇和島東高)、第五高等学校を経て、大正6年京都帝大法学部を卒業。銀行勤務の後、大正7年山下汽船に入社、営業部近海主任、近海課長を務めたが、昭和5年、大学の先輩にあたる田中正之輔や同郷の崎山好春、濱田喜佐男ら同志と大同海運を設立。9年東京支店長、 12 年取締役、 14 年専務に昇進した。戦前、日本海運界で異色のオペレーターと言われ同社の中核を担った。.
戦後、昭和 27 年同社の子会社広海汽船の社長に就任、現職のまま病没。第二次世界大戦下の昭和 19 遊女宇和島. 大学時代はボート部の選手として活躍、自ら「大津大学卒業」と称していた。おおらかで小事にこだわらず、無欲恬淡の人柄であった。趣味はゴルフ。昭和 41 年2月 23 日、 75 歳で死没。. 能島 通貴 (のじま みちたか). 明治 24 年~昭和 32 遊女宇和島 ~ 遊女宇和島 教育者。. 明治 24 年8月 27 日宇和島に生まれる。大正 12 年、豊後水道の孤島・ 日振島能登小学校に校長として赴任した。昭和2年、能登・喜路・明海小学校の三校が合併して日振島小学校となったが、続いて校長を務めた。昼は複々式の授業をし、夜は自力で島の青年たちのために夜学を開いて導いた。.
遊女宇和島 45 歳で失明して退職するが、続いて社会教育に尽力し、教育文化に貢献した。昭和 27 年には第一回の愛媛県教育文化賞を受ける。昭和 32 年3月1日 、65 歳で死去。. 中井 遊女宇和島 (なかい こっふ).
明治 14 年~昭和 遊女宇和島 年( ~ ) 医師、歌人。. 明治 14 年6月 23 日、北宇和郡来村保田(現宇和島市保田)に生まれる。本名謙吉。明治 40 年、愛知医学専門学校卒業。病院勤務の後、同 42 年、宇和島で小児科・医を開業。南予小児科医の鼻祖として、特に乳のみ児の診療に名声を博した。. 彼の業績の一つとして、浪花節を「浪曲」と名づけたことが挙げられる。当時、浪花節は品格の低い庶民の娯楽と見られ、その芸術性は省みられなかった。コッフは浪花節のファンであり、とくに桃中軒雲右衛門に心酔していた。そこで浪花節の芸術性を訴えるために、謡曲の名にもじって浪曲という呼称を創案し、日本中に広めたのである。それにちなんだ歌もある。 浪曲と吾改称し優越感.
持ちて語りしその浪曲を 遊女宇和島.
昭和 33 年、県教育文化賞を受賞。宇和島城長門丸に歌碑がある。昭和 37 年3月 18 日死去、 80 遊女宇和島. 松根 図書 (まつね ずしょ). 文政3年~明治 27 年( ~ ) 幕末の藩政を担当した宇和島藩家老。. 文政3年 12 月7日、松根図書壽恭の次男として生まれた。幼名豊次郎のち内蔵、図書と称す。諱は義守のち紀茂。三楽また竹画をよくし緑堂と号した。天保5年 )七代藩主宗紀の扈従となり、同 14 年扈従頭となる。この頃宗紀は,父親の図書に全幅の信頼を寄せ「悉く委任仕候」と言っている。. 弘化4年( )若年寄となり、嘉永4年( ) 石の家督を継ぎ、安政2年( )家老職となり学校頭取を担当している。その後財務と民政を担当し、八代藩主宗城が国務に奔走するのを助けた。.
元治元年( )には、長州処分に係わり藩を代表して安芸に赴き、第二次長州征伐に際しては、その善後策を進言している。剛気果断な性格で、左氏珠山などの反対者もあったようである。 慶応4年( )隠退。明治 27 年死去。享年 遊女宇和島 歳。法名は、靖簡院殿悠翁三楽居士。金剛山大隆寺(現宇和島市)に葬る。大正8年( )、正五位を追贈される。俳人の松根東洋城(豊次郎)は孫にあたる。. 土谷 フデ (つちや ふで). 明治8年~昭和 19 遊女宇和島 ~ ) 女姓教育者。県下最初の女性校長。. 建築設計士の父久治郎の長女として、明治8年に宇和島市富沢町に生まれる。同 30 年にお茶の水の女子高等師範学校を卒業。福岡県尋常師範学校を振り出しに教壇に立ち、同 34 年奈良県高等女学校から郷里の宇和島高等女学校に転勤。それ以後、宇和島を出なかった。大正3年、宇和島実科女学校の校長に就任した。女性の校長として、私立時代から県立家政高女となるまで 17 年間務めた。. 昭和6年教育界を去り、夫とも離婚して呉にいる長男のもとに身を寄せ、再び故郷を見ることはなかった。昭和 19 年鹿児島市で死去、 69 歳。.
末広 恭雄 (すえひろ やすお). 明治 37 年~昭和 63 年( ~ ) 学者・農学博士。. 東京で明治 37 年6月 遊女宇和島 日、父末広恭二(物理学者・東大地震研究所長)の子として生まれる。本籍は宇和島市本町 で、祖父は政治小説・評論家の末広鉄腸である。 東京高等師範学校 附属小学校(現・ 筑波大学附属小学校 )を経て、 年 に東京高等師範学校附属中学校(現・ 筑波大学附属中学校・高等学校 )を卒業。その後、 第八高等学校 旧制 を経て、 昭和4年、東京帝国大学農学部水産学科を卒業した。農林省水産試験場勤務の後、同 19 年から東京大学教授となり同 40 年に退官し、東大名誉教授となる。.
遊女宇和島 42 年から京急油壷マリンパークの取締役・同水族館長を務める。魚学の第一人者で〝さがな博士〟として有名であり、昭和 30 年から同 34 遊女宇和島 61 年7月にはアフリカ大陸東岸でシーラカンスの海中遊泳撮影に世界で初めて成功した。水族館では,さまざまな魚の生態を応用し「魚の音楽会」などを催し、ユニークな経営ぶりで子供たちにも喜ばれた。. 参考・ウィキペディア、 愛媛県生涯学習センター資料など. 木村 鷹太郎 (きむら たかたろう).
旺盛な研究心をもって郷土の文化財を調査研究し、県下に先駆けて文化財保護条例の制定に尽力した 。昭和 48 年、南予文化団体連絡協議会副会長となり、同 51 年には、町の文化財保護審議会会長となる。同 55 年愛媛県教育文化賞を受賞する。.
明治3年~昭和6年( ~ ) 主に明治・大正期に活動した日本の 遊女宇和島 、 哲学者 、 言語学者 、 思想家 、 翻訳家 。独自の歴史学説「 新史学 」の提唱者として知られる。. 遊女宇和島 21 年、明治学院に入学した。 島崎藤村 ・戸川秋骨らと同級生となり、英語弁論大会で一等になったものの、言動にすこぶる異様なものがあってヘボン校長から退校処分を 受けた。東京帝国大学歴史選科に入り、後に、哲学選科に転学する。卒業後、陸軍士官学校教官を務めるが、上司と衝突して辞職、新聞記者となる。同 30 年、井上哲次郎、高山樗牛らと「大日本協会」を結成し、日本主義を鼓吹する。一時結婚のため帰郷し「京華日報」に入社するが、長くは続かなかった。.
遊女宇和島 34 年から翻訳・著述に専念し、特にバイロンの研究に新機軸を展開、『バイロン文界の大魔王』『バイロン評伝及詩集』を発刊する。. 明治 44 年に発表した『世界的研究に基づける日本太古史』という大著で、とんでもないことを言い出したのである。イザナギとゼウスを、オオクニヌシとダビデを、タケイカヅチとモーゼを比べ、高天原をアルメニアに、出雲大社をメコン川流域に比定し、神武天皇の東征はアフリカ西海岸からの発信だったとしたばかりか、大半の世界文明は日本が起源であるという破天荒な妄想を一挙に披露したのだった。.
その他、邪馬台国 エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張をした。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。その研究の多くは存命中から 異端 学説と見なされた。代表的著作に『世界的研究に基づける日本太古史』など、翻訳に『 プラトン 全集』などがある。 東洋大学 創立者 井上哲次郎 とは親友であった。. また与謝野鉄幹と鳳晶子の仲人をしたことは、後に晶子が鷹太郎の著書に賛歌をささげる由縁である。昭和6年7月 18 日、 61 歳で死去。. 簡野 道明 (かんの みちあき). 慶応元年~昭和 13 年( ~ ) 漢学者。.
明治 17 年、愛媛県師範学校卒業。県内や兵庫県の小学校に7年勤務したのち、同 29 年、東京高師国漢専修科卒。東京師範学校教諭を経て、同 35 年東京女子高等師範学校教授。. 後、辞して中国に遊学し彼の地の学者たちと交わり、古書の採集、史蹟名勝の探求に専念した。以後、経学研究と辞典編さんに没頭した。『故事成語大辞典』など著書多数がある。大正 12 年、 20 余年心血を注いだ『字源』を刊行、不朽の名著と称される。. 戦前の中等教育における漢文教育の権威であり、彼の 編纂 した教材は多くの中学校などで使用された。 高見順 の作品「わが胸の底のここには」、 加藤周一 の回想記『羊の歌』には、簡野の教材が使用された記述がみえる(いずれも 府立一中 である)。.
学生時代、友達のために往復約 遊女宇和島 kmの道のりを歩き本を買いに行ったり、進学できない友人のために講義録をすべて送ったりなど、友情に厚い人物でもあった。.
昭和 13 年2月 11 日死去、 73 歳。墓地は東京小石川伝通院にある。. 二宮 敬作 (にのみや けいさく).
松山尋常小学校、宇和島中学校、松山高等学校を経て、大正12年、東京帝国大学農学部に入学 なお、当時遊女のほか女性は出島へ入ることができなかった)に拘禁され 百人の遊女がいたと記録にある。 現存する「若胡子屋跡」や遊女た. ちの墓を集めた「おいらん公園」 大洲藩・宇和島藩指定の船宿. 樹齢年の. 大クスノキ
文化元年~文久2年( ~ ) シーボルトに学び現在の東宇和郡宇和町卯之町に開業した蘭方医。如山と号す。. 遊女宇和島 10 日、宇和島藩領磯崎村(現西予市保内町磯津)で、半農半商の父六弥の長男として生まれる。 文政2年長崎に行き、通辞の吉雄塾でオランダ語を、蘭医学を美馬順三に学ぶ。次いで、来日したシーボルトに師の美馬とともに師事し、鳴滝塾に学んだ。学資の不足がちであった彼は、シーボルトのもとで植物採集や調薬、翻訳の仕事を手伝いながら学ぶ生活であったので、師弟の情愛も一段と深かったようである。シーボルト著の『日本植物誌』中に、敬作の名がつけられた植物が見つかることや,シーボルトの娘イネの養育を依頼されたことなどからも、それが窺える。同門には、高野長英や小関三英、伊東玄朴や石井宗賢らが居た。.
文政 11 年、シーボルト事件に連座して、翌年6月まで投獄された。 シーボルト事件とは、シーボルトが帰国する際、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。ところが、シーボルトがオランダへ持ち帰ろうとした荷物のうちに、伊能忠敬(いのうただたか)作成の日本地図など多くの禁制品(国禁)のあることが発覚した事件のことである。.
村上 天心 (むらかみ てんしん).
遊女宇和島 1634 年に、江戸幕府が長崎商人に命じて長崎港内に築かせた4000坪ほどの扇形の小島。初めポルトガル人を住まわせ、のち平戸のオランダ商館を移転させた。明治初年に埋め立てられ、現在は長崎市の市街地の一部になっている。なお、当時 遊女のほか女性は出島へ入ることができなかった )に拘禁された。1829年9月25日(陽暦10月22日)「日本御構 おかまえ 」(追放)の判決を受け、同年12月追放された。この折、敬作は同門 の阿波(徳島)出身の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装し小舟に乗って旅行くシーボルトを見送った。.
長崎では、門人の敬作や高良斎のほか、出島絵師川原登与助 とよすけ はじめ、通詞 つうじ=通訳。江戸時代、外国貿易のために平戸・長崎に置かれた通訳兼商務官 の馬場為八郎から召使いに至るまで、50数人が処罰された。. 遊女宇和島 半年の入獄の後、 富士山の測量も災いして江戸を追われ( 江戸立ち入り禁止) 、 長崎からも追放されたため、 文政 13 年、故郷磯崎に帰り、上須戒村(現大洲市)の西イワと結婚して、同所で開業する。天保4年、宇和島藩主伊達宗紀に登用され、卯之町で開業する。以後 20 余年間の卯之町での、彼の業績を整理すると次のようになる。一つには、甥の三瀬周三外の人々を教え、シーボルトの娘イネを養育した教育者であったこと。二つには、大念寺(現光教寺)山に種々の薬草を栽培し、外の医家にも分け与える本草家であったこと。また、本業の医療では、患者の貧富を問わず深夜でも往診し、最新の技術であった種痘にも従事する熱心な医者であったことである。.
イネの件だが、シーボルトが日本を去る際に、 遊女宇和島 の娘 楠本イネ ( 愛称は「おらんだおイネ」。 戸籍の名は 「イ子」。「楠本」は母・楠本瀧の姓。瀧は出島に出入りしていた遊女・其扇〈そのぎ〉。シーボルトは、彼女を「おたくさん」と呼んで寵愛した 遊女宇和島 の養育を託されていた敬作は、 天保11 1840 年には、14歳のイネを長崎から宇和町に呼び寄せ、オランダ語・西洋医学を教え、女医としての能力を授けた。日本最初の女医の誕生である。. 敬作は、イネに産科を学ばせるため、19歳のとき備前(岡山)で産科を開業していたシーボルト時代の同門石井宗賢 〈そうけん〉 のもとに派遣した。イネは産科学を学んで長崎に帰り、宗賢との子「 たか(高子)」も 出産した。宗賢との件を激怒した 敬作は、 安政元 18 54 年、宇和島藩の軍艦建造調査団とともに長崎を再訪 、 イネを再び宇和町に招き、開業させた。.
この間、宇和島藩の彼に対する処遇を見ると、弘化2年、医業出精のため帯刀を許し、安政2年御徒士格、準藩医に列せられ、嘉永4年の分限帳では、御合力米5俵と長男逸二にも修業扶持一人分が与えられている。安政3年、シーボルトが再来日するとの報に接し、再び三瀬周三等と共に長崎に赴き、銅座町のイネ宅で開業する。 安政5 1858 年の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消されたシーボルトは、翌年30年ぶりに再来日(渡来)、敬作の計らいで、滝、イネ親子と感激の対面を果す。また、娘イネに西洋医学を教えた。.
敬作はこのとき、既に脳溢血で右半身が不自由であったにも拘らず、難手術を成功させている。文久2年3月 12 日、長崎で死去。享年 57 歳。遺骸を長崎皓台寺に、遺髪を卯之町光教寺に葬る。大正 13 年、正五位を追贈された。. 平成3年 1991 年3月、八幡浜市保内町磯崎(いさき)の国道沿線の生家跡を望む近くの高台に「二宮敬作記念公園」が完成し、銅像が建てられた。平成4 1992 年11月13日は、二宮敬作生誕200年祭が、保内町や宇和町で行われた。. イネは、宇和島時代に長州(現山口県)を逃れて滞在していて長州藩の医者の村田蔵六(後の大村益次郎。明治 遊女宇和島 )から蘭語を学び、彼が襲撃された後、治療、その最期を看取った。. 敬作は情に厚く、貧しい人にも献身的な活動で地元民から「医聖」として慕われた。 遊女宇和島 三瀬周三 は、イネの娘・ 楠本高子 の婿にあたる。. 遊女宇和島 (おおみや くらきち). 明治 19 年~昭和 47 年( ~ ) 明治 19 年4月1日北宇和郡竪新町(現宇和島市)で出生、父井上卯平、母マチの三男。4歳の時父死去、 5 歳にして母を失い、丸穂村の大宮家の養子となる。養父新吉、養母セキ。.
全国新式味淋焼酎の連盟理事などとなり、同類の会社を次々と買収合併した。即ち松竹梅酒造㈱を傍系会社として経営し、日本酒造㈱を買収、次いで赤穂酒造㈱・岡村酒造㈱・大黒葡萄酒㈱・日本酒精㈱などを傘下におさめた。戦時中は大陸にも進出し、昭和 20 年 12 月 60 歳で宝酒造㈱取締役社長に就任した。. 昭和 32 年タカラビールを始めたが失敗し、昭和 42 年に京都工場はキリンビールに、木崎工場はサッポロビールに譲渡した。昭和 46 年1月脳血栓発病、翌 47 遊女宇和島 21 日死去、享年 86 歳。宝酒造㈱による社葬が執り行われた。日頃から郷土宇和島の発展を祈願し、2500万円の巨費を寄付し、これが基となって市公会堂が建設され、社会福祉並びに市民の文化及び教養娯楽施設として大きく貢献した。また和霊公園噴水施設費として多額の寄付をおこない、市民に憩いと安らぎの場を与えた。 彼が生涯、郷里宇和島に対して様々な配慮を残したのは、そこが単なる出身地であるだけではなく、その後の彼を育てた場所として彼の心の中に占める大きな存在であったのだろうと推測される。.
彼の性格業績については追悼録に詳しい。「彼は学歴も門閥もなく、文字通りの自成の人、自らの人格と才幹は自力で開発錬磨された人」と大平正芳は評している。「彼が思い切ってビールから手を引いたのは、ダンケルク撤退のチャーチル式だ」と塩崎潤は評している。昭和 28 年に大阪の稲畑太郎から譲り受けた、南禅寺山の名園「何有荘」で晩年を過した。.
村上 天心 (むらかみ てんしん). 遊女宇和島 10 年~昭和 28 年( ~ ) 画人。明治 10 年2月 12 日、宇和島須賀通(現宇和島市御幸町)の豆腐屋の生まれ。本名は孝吉、天心と号す。. 青年期は各地を遊学し、絵画、彫刻、建築など、芸術、文学全般にわたり探求し、その道を究めた。 24 歳の時『小楠公奮戦の図』を「帝展」に出品し、新聞に掲載されるなどして世間の注目を集めた。.
昭和 28 年 遊女宇和島 月 22 日 76 歳で没す。その遺作は宇和島中心に南予方面に多く、同市西江寺の「閻魔大王画像」はよく知られている。また晩年の作は安住寺を中心に杵築地方に多く集中し、地域の人々に親しまれ、近年その再評価の声が高まっている。. 前原 巧山 (まえはら こうざん). 遊女宇和島 25 年( ~ ) 宇和島藩で最初の蒸気船を建造した技術者。幼名嘉蔵のち喜市、巧山と号した。. 文化9年9月4日、八幡浜浦新築地(現八幡浜市)で生まれた。9歳の時、手習いに通う。 12 歳より船商売をしていた父を手伝い、船に乗り始めた。 16 歳で父を失い、その後他家へ奉公に出たり、船商売・雑穀商・目貫師・刻煙草の商売をしたりした。住所も転々としている。. 安政元年、 42 歳の時に転機が訪れる。丁頭・清家市郎左衛門から、藩が火輪船の工夫のできる人物を探しているのでやってみないかと言われたことである。動力は人力であるが、船体に四つの車輪をつけ、それが芯棒の1回転で3回転する模型作りに成功し藩主宗城の目に止まったのである。さっそく実船にとりつけて実験が行われ、この年3月、巧山は2人扶持5俵を給されて御船方に登用された。.
また彼は、ゲペール銃を模した小銃・織機の模型・縫製機械の作成などを行うとともに、合金の分離を試みるなど、極めて幅広い科学技術の才能に恵まれていた。しかし、明治4年の廃藩置県で活動の場を失い、以後大きな事績もなく明治 25 年9月 18 日、宇和島で没す。享年 80 歳、西江寺(現宇和島市)に葬られた。. 嘉永5年~大正 13 年( ~ )実業家・衆議院議員。大阪商船設立に尽力し、阪神電鉄を創設して専務取締役、後に大阪商工会議所会頭になった。.
嘉永 5 年2月5日,宇和郡国遠村(現北宇和郡鬼北町)の庄屋の家に 12 人兄妹の五男として生まれた。衆議院議員今西幹一郎は、兄に当たる。幼くして父母を失い家計が苦しくなったので,親戚の吉田町の酒屋に養子にやられていたが、明治 13 年1月青雲の志を抱いて大阪へ出奔。やがて上京して、昼間は働き夜間三菱商業学校で学んだ。一時、三菱会社員となったが再び大阪に戻り、資金を借りて回漕店を開業した。. 明治 15 年、回漕業者を集めて大阪同盟汽船取扱会社を興し、 17 年には船主と協力して大阪商船会社設立に尽力し、同社の回漕部長になった。 22 年石炭問屋及び綿糸貿易業を始め、関西有数の商人に成長した。このころから諸種の事業に関係、大阪興業銀行創立に参加した後、 31 年阪神電鉄を設立して社長空席のまま専務取締役に就任して同社の基礎を固めた。.
また政界進出の志を持って兄幹一郎の地盤を受け継ぎ、明治 31 年3月と同年8月の衆議院議員選挙に第6区から自由党公認で出馬したが、いずれも進歩党推薦の児島惟謙に敗れ落選した。大正4年3月、第 12 回衆議院議員選挙に立憲同志会から推されて当選したが、次の6年4月の選挙では再び落選して、以後国会議員を望むことはなかった。. 大正 10 年大阪商工会議所会頭に就任,文字通り大阪実業界の代表者になった。大正 13 年8月 遊女宇和島 日 72 歳で没した。. 浜田 祐太郎 (はまだ ゆうたろう). 明治 10 年~昭和 13 年( ~ )漁業功労者。宇和海において、まき網漁業を動力化した先覚者。.
明治 10 年7月 24 日、父岩崎祐蔵、母フシの長男として、宇和郡内海浦大字内海の内申浦(現愛南町御荘中浦)に生まれる。明治 35 年4月 12 日、浜田清太郎の次女ツ子と婿養子の婚姻を結ぶ。祐太郎が婿養子となった頃は、御荘湾の菊川沖や内海湾が主漁場のいわし網を営んでいたが、大正3年 38 歳のとき朝鮮巨済島に渡り、いわしバッチ網(船びき網の一種)を経営していた。しかし、大正5年に事業が振るわず帰国した。その頃、地元では次々といわし揚繰網が始められ、同 10 遊女宇和島. 大正 12 年祐太郎は、今後いわし網漁業は漁場が岸近くの地びき網、船びき網から漸次沖合に移動して行くことを察知した。遠い沖合漁場までの往復に要する時間の削減を図らなければ、いわし網漁業の経営は成り立たないと思った。ここで新しい試みとして、船団を動力船でえい航することとし、通い船として宇和島と九島の間に就航していた古発動機船を購入し,いわし揚繰船団の一切をえい航する方法を採用した。この結果、操業時間の効率化が進み,われ先にとこのやり方が行われることとなり,宇和海における揚繰網漁業は大きく前進した。.
昭和9年3月、宿毛湾入漁問題に関し、 32 統の東西外海村いわし揚繰網の入漁が許可となったにも拘わらず、内海村は入漁できないこととなっていた。宿毛湾入漁の実現と経済上の利益を増大するため、網主組合の組織化が不可欠と考え村内網主を中浦に招集した。協議した結果、内海村の沖取網(小型のまき網の一種)、揚繰網、巾着網主組合を結成し、その組合長に就任した。奔走した結果、ついに昭和 12 遊女宇和島 11 月、年来の宿望をある程度達成し、 10 統の内海からの宿毛湾入漁が可能となった。祐太郎の献身的な努力の賜物と言える。.
昭和 13 年3月 29 日中浦にて没、 60 歳。次男の憲三が家業を継ぎ、現在の大浜グループをつくりあげた。全国屈指のまき網会社に発展している。. 今西 幹一郎 遊女宇和島. 弘化3年~昭和2年( ~ )好藤村長・県会議員・衆議院議員・実業家で、宇和島鉄道・宇和水力電気を創設した。.
弘化3年8月6日、宇和郡国遠村(現北宇和郡鬼北町)の庄屋今西権四郎の長男に生まれた。実業家今西林三郎は弟である。幼くして父を失い、万延元年 14 歳で家督相続して庄屋役を継ぎ、明治元年私費で国遠に溜池を掘り、溝を通し灌漑の便を図った。明治 17 年5月県会議員になったが、 21 年3月退職した。その後、宇和島の山崎惣六ら大同派に説得されて、 22 年1月再び県会議員になり 25 年3月まで務めた。. 明治 29 年3月には、末広重恭死去に伴う衆議院議員補欠選挙で自由党から担がれて当選した。だが、政治活動を好まず、 31 年3月の衆院選挙には自らは出馬せず、代りに弟林三郎を推した。 39 年、村民に望まれて好藤村村長に就任、 43 年まで在職して、里道改修や小学校建築を行った。また、「貧民救助基金蓄積条例」を定めて孤独の貧者の救助、貧民子弟の義務教育費の補助を行うなどに尽力した。 遊女宇和島 年ころから鬼北地方開発のため鉄道敷設を計画して郡会を動かしたが、日清・日露戦争などで起工するに至らなかった。.
明治 43 遊女宇和島 10 月宇和島一近永間 安藤 継明 (あんどう つぐあき). 遊女宇和島 ~ )吉田藩紙騒動で切腹し、神として祀られた同藩の家老。通称儀太夫。. 安藤は八幡河原に赴き再度の交渉をするが、一揆勢の態度を変えることはできず、全責任をとって同所で切腹した。以後、事態は収拾に動く。寛政5年2月 14 日は、安藤の誕生日であり享年 46 歳であった。海蔵寺(現北宇和郡吉田町)に葬られる。法号大節院殿顕翁道危居士。. 死後 61 年目の命日、嘉永6年2月 14 日、海蔵寺山上の中天に神光があらわれ、安藤の霊験であるとされ各地から参詣者が来るようになった。明治6年安藤邸跡に継明神社(現安藤神社,北宇和郡吉田町)が建立され、現在に至っている。.
今すぐ Contact を. 愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会 (略称・宇東高近畿同窓会). 高田 熊良 ・郷土の先人 高田 熊良 (たかだ くまよし) 大正5年~昭和 遊女宇和島 年( ~ ) 畜産功労者。 遊女宇和島 その後、関係農家のよき相談相手となり、また研究会を作るなど、技術の向上、経営の合理化、優良系統牛の導入保留、自給飼料の確保に重点を注ぎ、確固たる基盤を構築した。さらに、施設の革新を目指して公社牧場( 5 戸)を建設し、あるいは後継者育成に意を用いて選択的発展への恩人とも言われる人となった。 その後、地元農協の監事理事専務を務めるほか、町会議員農業委員、PTA会長など、畜産以外での幅広い活動も高く評価された。県畜産功労者表彰をはじめ、多くの賞が授与されたが、 65 歳を待たずして昭和 55 年6月2日急逝した。 (参考・愛媛県生涯学習センター資料).
松根 宗一 (まつね そういち) 明治 30 年~昭和 62 年( ~ )実業家。 明治 30 年4月3日,宇和島に生まれる。俳人松根東洋城の実弟にあたる。旧制の宇和島中学校卒業後、東京商科大学へ進み大正 12 年卒業する。同年日本興業銀行へ入行した。その後、昭和7年日本電力連盟の書記長となる。 昭和 31 年原子力産業会議常任理事、副会長となる。また、経団連エネルギー委員長や原子力発電取締役ともなり、名実ともに原子力の松根として財界のトップに立つ。 連盟の書記長時代には、国家統制に反対して留置場へ入ったこともある。松永安左衛門、小林一三、麻生太賀吉などの実力者にも可愛がられ、東亜電力社長、後楽園社長などにもなる。「すばしっこい一面、人を食った図太いところがある」という松根評がある。昭和 51 年には勲一等瑞宝章を受け、同 55 年には県功労賞を受賞する。趣味はタイ釣りで、四国に帰ると必ず興居島沖のタイ釣りに出かけた。昭和 62 年8月7日死去、 遊女宇和島 歳。 (参考・愛媛県生涯学習センター資料).
森岡 天涯 (もりおか てんがい) 明治 12 年~昭和9年( ~ ) 社会事業家。 明治 12 年、日振島(現宇和島市)に生まれる。本名捨松。明治 32 遊女宇和島 20 歳でアメリカ航路の船員となりシアトルへ行く。ホテルの皿洗いや牛乳配達をしながら苦学をする。新聞記者として活躍するが、滞米 23 年、大正 遊女宇和島 年に帰国し、南予農漁村の経済、文化の貧困と後進性の打破のため、故郷で後半を捨てようと決意する。 禁酒・禁煙の敬けんなクリスチャンであった彼は、故郷の日振島で禁酒運動をはじめた。漁村と酒は断ち切れないものがあり難事業であったが、一人ひとりと膝詰め談判で説得し、酒に使う金で立派な小学校をつくらせた。 薬師寺岩太郎らの協力で、月刊雑誌「南予之青年」を出したり、大正 12 年には、財団法人南予文化協会を誕生させた。また、昭和3年には、南予文化会館を建てようと寝食を忘れて資金作りに奔走し、昭和5年完工する。これは昭和 20 年の空襲で灰じんに帰したが、夏季大学をはじめ各種の社会教育の行事等に活用された。後に、この会館の敷地売却代金で南予青年の家が建設され、天涯の灯した火は消えないで今に生きている。ここには天涯の精神を頌徳する碑が建っている。 遊女宇和島 55 歳。 (参考・愛媛県生涯学習センター資料).
弘田 義定 (ひろた よしさだ) 明治 37 年~昭和 62 年 ~ )歌人。 明治 37 年6月 26 日、宇和島に生まれる。宇和島商業(現宇和島東高)卒業後、南予時事一愛媛新聞と新聞界に身を置いた。短歌との出会いは大正 11 年、 遊女宇和島 歳のときで、最初の師は中井コッフであった。 弘田は子規の流れをくむ伊藤左千夫、長塚節、島木赤彦、土屋文明らを敬愛した。中でも文明の庶民的な叙情歌に心ひかれ、昭和 26 年アララギに入会する。近代短歌の革新を志した子規の唱えた写生、写実主義を歌作りの基本にした生活歌人でもある。昭和 27 年「愛媛アララギ」創刊以来、代表の座につき、愛媛歌人クラブ会長,松山歌人会会長をつとめた。 昭和59 年には「愛媛アララギ」は創刊以来 号を数え、会員数、活動ぶりは関西一といわれた。新聞社では論説委員長、営業局長、常務取締役などを歴任した。昭和 59 年文化庁地域文化功労賞、松山市民表彰を受ける。昭和 62 年6月 20 日、 82 歳で死去。 (参考・愛媛県生涯学習センター資料).
薬師寺 真 (やくしじ ただし) 明治 44 年~昭和 53 年( ~ ) 蚕糸業功労者・実業家。 明治 44 年4月 20 日、北宇和郡三間村に生まれる。吉田中学校を卒業。愛媛県養蚕試験場講習科を終えて養蚕業を自営していた。三間地方は、明治中期頃から養蚕が盛んに行われ、迫目の岡本景光は、明治 遊女宇和島 年以来蚕種の製造を行い、県内外から注文があった。また、大正8年、赤松直次郎が宮野下に移って三間蚕業株式会社をつくった。その他に富永、薬師寺、黒井地の佐々木、是延の善家等が蚕種製造に従事し、地方蚕業に貢献した。 明治 42 年、宮野下に河野製糸場(後,三間製糸株式会社)が開かれ、大正に入って第一次世界大戦が起こり、養蚕の黄金時代を現出した。だが、大正末期から昭和初期にかけての財界の不況により、暴落の一途をたどり養蚕・製糸家は減少していった。 薬師寺は、昭和 20 年4月、井関農機会社に入社(社長井関邦三郎,大正 13 年北宇和郡三間村で創業)。同年7月 26 日、松山空襲で市街はほとんど焼失、同社も全焼した。社長・井関邦三郎のもと復興に尽力、今日の全国屈指の農機製造工場の基盤の樹立に大きな貢献をした。昭和 34 年、代表取締専務に就任した。労働力の省力化、効率化に努め、農業の近代化の先導的役割を果たした。昭和年には田植え機、コンバイン、バインダーを製造販売。稲作一貫体系を完成した。また、販売網の拡充とサービス、商品管理体制の一貫性をめざした。本社工場のほか、熊本・茨城に最新設備の工場を新設し、農業機械の高性能化と多種混合生産システムを導入する等、大きな働きをし昭和 46 年同社を退職した。 この間、愛媛経営者協力会長、愛媛経済同友会の初代代表幹事を歴任した。また,昭和 39 年松山市民病院(大手町2)開設に努力し、理事長を務めた。同 48 年から南予レクリエーション都市開発会社専務・社長となり、地域経済開発に力を注いだ。さらに、松山商工会議所会頭・愛媛県商工会議所連合会会頭の要職に就き、愛媛の経済界のリーダーシップをとった。同 47 年には、故井関邦三郎(昭和 45 年 10 月 11 日死去)の遺志によって県内の優秀農業関係者に贈る「井邦賞」を創設した。昭和 53 年1月2日、 66 歳で死没した。 (参考・愛媛県生涯学習センター資料).
上甲 振洋 (じょうこう しんよう) 文化 14 年~明治 11 遊女宇和島 ~ ) 儒学者。時世を憂え、明治 10 年国事犯事件を扇動した。 文化 遊女宇和島 年 12 月9日、宇和島の藩儒・上甲順治(拙園)の次男に生まれた。兄上甲貞一は、幕末宇和島藩家老で維新後、大参事を務めた。字は師文、通称礼三。藩学明倫館に入り、次いで小松の近藤篤山に師事し、天保 11 年、江戸に遊学して安積艮斎に学び、昌平黌に入った。 帰藩後の弘化2年、藩の儒官に任ぜられたが、嘉永5年、官を辞した。安政元年、八幡浜に移って私塾を開き、その門人は数千人に及んだという。明治2年、宇和島藩知事の懇請で官に復職、権大参事民政掛と文学教授を兼ね学制を改革した。明治3年辞表を提出して八幡浜に帰り、謹教堂を設けたが、新政府を批判したので、同 5 年、官命により閉鎖された。門人鈴村譲や飯渕貞幹らと時世を慨して方策を議した。宇和郡奥野川村に潜伏中の長州不平士族・富永有隣の斡旋で土佐の大石圓らと盟約を結び、京都の友人春日潜庵を頼って鹿児島の西郷党と通じようとした。 遊女宇和島 10 年、西南の役が起こるとこれに呼応して準備を進めていた吉田の飯渕党と、大洲の武田豊城一党の謀議・武器収集が露見して、同志ことごとく拘引・逮捕された。が、振洋は中風の故をもって、獄を免れた。鈴村・飯淵らは、尋問でも師振洋に類が及ぶのを恐れて、事件についての真相は口を閉ざした。 明治 11 年9月9日、門弟が獄につながれ悶々のうちに 70 歳で没し、宇和島選仏寺に葬られた。大正 13 年、鈴村譲は『振洋先生年譜』を著して、「明治 10 年国事犯事件」と振洋との関わりを明らかにした。学識深く、漢詩文をよくし、『上甲振洋先生遺稿』『上甲先生詩稿』『藩日記抜萃』など、多数の著書かある。末広鉄腸・都築温・井関盛艮・西河通徹・左氏珠山・告森良・西山禾山など、宇和島出身で名をなした人々の多くが、振洋の門弟として薫陶を受けた。 (参考・愛媛県生涯学習センター資料).
原 尚 (はら ひさし) 明治 25 年~昭和 49 年( ~ ) 教育者。 遊女宇和島 25 年5月6日北宇和郡宇和島町北町(現宇和島市大宮町)に生まれる。宇和島中学校を経て、広島高等師範(現広島大学)を卒業。大正5年、京都の旧制中学に勤務をはじめ、中等教育一筋に歩む。昭和 13 年から終戦まで,今治高等女学校(現今治北高校)、松山高等女学校(現松山南高校)、今治中学校(現今治西高校)の校長を務める。 戦後は、今治第一高校、宇和島東高校長を歴任する。専門は理科で、理科教育に大きく寄与する。昭和 29 年に退職した。 38 年間の教職生活を終えてからは、地域社会の文化振興に尽力し、社会教育委員や文化財保護委員として郷土文化の発展に寄与した。 昭和 40 年には勲四等瑞宝章、同 42 年、県教育文化賞を受賞する。昭和 49 年 12 月 30 日、 82 歳で死去。 (参考・愛媛県生涯学習センター資料).
芝 不器男 (しば ふきお) 遊女宇和島 36 年~昭和5年( ~ ) 俳人。 明治 36 年4月 18 日、北宇和郡明治村松丸(現松野町)の芝家に生まれる。 不器男の名は、 論語 の「子曰、君子不器」から命名された。 昭和3年、同郡二名村(現三間町)の太宰家に入る。本名、太宰不器男。 松山尋常小学校、宇和島中学校、松山高等学校を経て、大正 12 年、東京帝国大学農学部に入学した。その後、東北帝国大学工学部に転じたが中退した。 俳句は、大正 12 年、家郷の句会に出席、姉蘭香女のすすめで句作を始める。はじめ扶樹雄と号して、長谷川零余子の「枯野」によったが、俳人である兄のすすめで吉岡禅寺洞の「天の川」に投句、禅寺洞のすすめで号に不器男を用いるようになった。 大正 15 年「天の川」巻頭となり、「天の川」に不器男時代が出現した。原石鼎の「鹿火屋」では振わなかった。同年の「ホトトギス」 12 月号に二句入選。そのうちの「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」が、翌年1月号で高浜虚子の名鑑賞を受け、一躍注目を浴びる。松山の「葉桜」(塩崎素月主宰)にも投句、翌昭和 2 年より同誌の課題選者となる。昭和 3 年太宰文江と結婚。この年、水原秋桜子は「新進作家論」で不器男を推賞した。しばらく投句を休み、万葉集の研究書など読む。 昭和4年4月発病、九州帝大附属病院後藤外科に入院。病名は肉腫。昭和 5 年 2 遊女宇和島 24 日、福岡市の仮寓で死去、 26 歳。墓は太宰家墓地(三間町)にある。「白藤や揺りやみしかばうすみどり」「泳ぎ女の葛隠るまで羞ひぬ」「寒鴉己が影の上におりたちぬ」など青春の抒情性豊かな秀句を残した。句碑が三基ある。 郷里の松野町では、毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。昭和 63 年、松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館した。また、 平成 14 年、生誕 年を記念して愛媛県文化振興財団により、「 芝不器男俳句新人賞 」が設けられた。 遊女宇和島.
最初に | 市 | 状態 | コード | 出会い系検索 | 売春婦 | エロマッサージ |
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遊女宇和島 | Uwajima | 愛媛 | JP | 1216 | いいえ。 | いいえ。 |
18.12.2005 | はい。 | 60 | SFYZ | いいえ。 | いいえ。 | 79 |
20.05.2017 | 85 | SFYZ | いいえ。 | 13 | SFYZ | 97 |
Population ja20
天保 14 年 遊女宇和島 月 10 日宇和郡御荘に生まれ、安政2年宇和島藩足軽になった。剣術の達人として知られ、伊達宗城の警固を務め慶応2年山崎家を継いだ。明治 13 年国会開設請願運動の時期、宇和島に蟻力社を組織して愛国社の集会に加わるなど民権運動に従事した。明治 20 年の三大事件建白運動では、坂義三に勧誘されて宇和四郡の署名集めに奔走、警察の「政党員名簿」には、「温和ノ性ナレトモ,事二因り頗ル活発決シテ人二譲ラサルノ気性アリ」と記録され、宇和島を訪れる政治活動家は必ず山崎を頼ったといわれるほどの人望家であった。. 昭和9年、満鉄の招きで満州各地を講演旅行中病に倒れて、同年8月帰国、まもなく死去した。 55 歳。. 原 尚 (はら ひさし).
楠本イネ - Wikipedia
Uwajima (yu he dao, Uvadzima, uwajima si, yu he dao, Uwazima, awajyma ahymh, uwajima si)
現地時間 Asia/Tokyo